| 97年の川崎フロンターレは、総じてすべての人が不幸であったが、 中でも最大級に不幸だったDF。
長谷部・野口らとともに途中加入したのだが、程なく迎えた札幌戦で不幸は起こった。
この日の首位攻防戦は異様なテンションで進んでいた。 先制する川崎に、追うバルデス、ではなくて札幌。
そんな中、札幌は今まで崩したことのなかった3バックシステムを4バックに変更。 スイーパーを外して、中盤にゲームメーカー鳥居塚を投入。ウーゴとのW指令塔システムという、 最大級のギャンブルに出た。
この日川崎は、中西の1ボランチシステムを採用。 ウーゴには特定のマーカーを付けず、中西と両サイドバックで受け渡し、 逆にバルデスにはセンターバック二人ががりでマークをつけて凌いでいた。
このため、明らかに守備的中盤の駒が不足した。押し込まれる川崎。 早く選手を変えなければ、、、。
ところが、投入されたのはボランチもしくはマーカーではなく、センターバックの平山だったのだ。 必要なところには手当てがされず、逆に最終ラインは余り、バランスが崩れた。 試合はバルデスがハットトリックの大活躍で札幌が怒涛の逆転勝利。
試合後はピッチで人目を憚らず号泣する中西の姿があった。 全身全霊をかけて守り続けた今までの努力が、すべて一瞬にして無駄にされたのだ。
この敗北は、言うまでもなく、監督、斉藤和夫の責任だ。しかし、彼はその責任を選手に押し付けた。 結局、平山はその後ピッチに立つことはなかった。
そういえば、この直後、フランスをかけた最終予選、日韓戦でも同じようなことがあったね。 加茂がJFLをちょっとでも見ていれば、あんなことにはならなかったのに。
そして、その後斉藤和夫はレッズの監督になって、同じようなことをしてたね(笑)。 レッズの関係者も、JFLをちょっとでも見てたら、あんなことにはならなかったのに(笑)。 |
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