その私がはまってしまったJFLは、プロアマ混在リーグだった。
94年はそういうわけで柏中心に観戦スケジュールを組んでいた。
当時はJリーグの準会員(2位までに入れると昇格:柏レイソル・セレッソ大阪、京都パープルサンガ)、
準会員を申請・準備中のクラブチーム(藤枝ブルックス、PJMフューチャーズ)、
強力企業チーム(本田技研、大塚製薬、東芝)、中堅企業チーム(富士通、東京ガス、川崎製鉄)、
弱小企業チーム(NTT関東、NEC山形、西濃運輸、コスモ石油)、弱小クラブ(甲府クラブ) という、
個性的かつ貧富の差の激しいリーグだった。
この中で、この年、特に躍進したのが藤枝ブルックスだった。母体は前年までの中央防犯。
非常にちっこい会社であるが、PJMフューチャーズとともに、
脅威的なスピードで地域リーグを勝ちぬき、JFLに昇格したチームである。
最初は中小企業の同好会だったチームは(勤務時間の関係で練習に3人しか集まれない時もあったらしい)、
名物菊川監督就任に伴ない急速に力をつけた。
更に、プロフェッショナルな考え方に基づき、
ステップアップのたびに多くの選手の首を切り、強化を進めてきたという。
義理と人情・気合と根性という(感じの)チームカラーのブルックスは、そしてこの年は連戦連勝。
終盤まで柏レイソルを抑えて2位に付けていたのである。
当時のFWは後にアビスパ福岡をだんじりカラーに染めた名物監督、ピッコリである。
そのカウンターは脅威であった。
この年の戦慄の一戦は、柏レイソル対藤枝ブルックスの一方的サバイバル直接対決。
この時もピッコリは度々決定機を向かえてシュートを撃ちまくった。
しかし、これらのシュートを、当時柏レイソルのゴールを守っていた若き無名のキーパー
(正GK大橋が骨折で離脱し、抜擢)が、神懸かり的な反応を見せてことごとくつぶし、
1-0で柏が勝利、昇格戦線に生き残ったのである。
このGKが、現在我らがFC東京の土肥洋一である。
そして、このチームはまた、急速なチーム強化を続けた。
この年の天皇杯を前に、元アルゼンチン代表のトログリオを獲得。ヴェルディ川崎相手に善戦した。
そしてチームはプロフェッショナルとして、スポンサー獲得を求めて地元藤枝を捨て福岡に移転。
福岡ブルックスとなって、翌年JFLを勝ちぬき、Jリーグへの昇格を果たしたのである。
この時、中央防犯時代から首にならずに生き残っていたのは、遠藤ただ一人であった。
遠藤はそして、翌96年。柏サッカー場のレイソル戦で、初ゴールを決めた。
シビアなプロの世界の中で、最後に残った義理人情が花開いた瞬間とでも言うのだろうか。
我慢しようとしても、涙を禁じえなかった。
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