水戸ホーリーホック 99JFL |
| 99年。Jリーグは2部制に移行。私の愛したJFLは解体された。 そして、この年も個人的にはリーグに対して遺恨が残った。
JFLを戦った仲間のような貧乏チームも、99年は大部分がJ2にやってきた。 が、その中でも、特に財政支援が必要なチームが、J2への参加を拒絶されたのである。 それが水戸ホーリーホックだった。 当時のJ2は「水戸を除く11チーム」での船出が発表された。 これは明らかにおかしかった。何故わざわざ奇数チームにしてまで、水戸を外す必然性があったのか?
考えて見ると、実は前年も似たようなことがあった。 97年の終盤、突然JFLに国士舘大学の加入が発表された。 この年、西濃運輸の撤退が発表されていたが、JFLは熾烈な2位争いが展開されていた。 2位の座を東京・本田・川崎の3チームが争っていたのだ。このうちJリーグに昇格できるのは川崎だけ。 ということは、1チームしか昇格できないことが予想されたのである。 となると、地域リーグからの昇格2チームがあるから、16+2+1-1-1=17で、計算が合わなくなるのである。 1チーム多いのだ。じゃあ、どこが降格するのだろう?
ところが、結局この年、福島の解散がその後、突如発表された。 最初から全て帳尻は合っていたのである。
ということは、98年、どこかのチームが解散する、ということになるはずだ。果たしてどこが。 私はそれを川崎と読んでいた。あれだけの大金を使いながら観客は頭打ち。 これで2年連続で昇格できなければ、赤字の規模は容易に想像できる。 いくら大企業がバックとは言っても、もう限界だと思っていた。
そして、予想通り、1チームの消滅が突如発表された。 しかし、そのチーム名はよもやというものであった。 浦和レッズに続いての観客動員を誇る、横浜フリューゲルスだったからだ。
ちょっと話がそれるのと、フリューゲルスのサポータから反発を受けることを承知の上で展開する。 この解散劇は日本中の同情を誘っていたが、極めて甘ったれた話の様に見えた。
チーム吸収合併の話は突如沸いて出て、「相談なく解散を決めた」事に特に非難が集中した。 たが、Jリーグの動きを見ると、この話が水面下でかなりオフィシャルに進められていたことがわかる。 つまり、発表を遅らしたのはJリーグだった、という事が想像できる。 ところが、何だろう。 選手やサポーターがやったことは、今まで巨額な赤字を補填して来てくれた、 「スポンサーに対する嫌がらせ」のようなものであったではないか。
実は私は、福岡のスカウティングをする目的であったが、三ツ沢のフリューゲルスのリーグ最終戦を見に行っている。 この時、私が見たのは信じられない光景だった。 1000円のゴール裏は満員だったが、4000円か5000円のメインスタンドはガラガラだったのだ。
チームは、「客が入らない」とは言っていない。金がない、と言っていたのだ。 その状況で、サポータは署名活動を行っていたが、最後の試合には1000円しか払っていないということではないのか? 署名だけなら誰でもできる。 で、実際に署名をした人達は、チームの存続は願っていたがスタジアムには来なかったのだ。
どうしてチーム存続を願うサポータさんたちは、 愛するチームが金がないと言っているのに高い席のチケットを買わないのだろう。 余ったチケットでは友達を呼べばいい。 何故1万5000人のスタジアムさえ、いっぱいにしようとしなかったのだろう。
天皇杯の試合では何万円も払って遠征しているのに、 どうして自分のチームの収入になるホームゲームには金を払わないんだろう?
このチームはつぶれて当然だな、と思った。 スポンサーは金がないと言っている。 選手は自分達の給料を返却するわけでもない。 観客も金を出すわけでない。 皆が誰か出してくれと言っているだけだった。
私はこの時異様に冷めていた。むしろ怒りに震えていた。 放漫経営のチームがつぶれるのは言ってしまえば自業自得だ。 でも、そのツケを、年間運営費を5千万円程度でやりくりしていたと言われる、 地道なチームが受けさせられるのが許せなかった。
2部制に移行した後の残りかすのようなJFLに、どれだけ客が来るのか、誰も想像できない。 それは、水戸のチーム存続に多大な影響を与えかねなかったのだ。 でも、マスコミは、この事実を指摘しなかった。 話題になって、それなりに視聴率が稼げる方が良かったのだろう。 そして、天皇杯はさながら、大物演歌歌手が引退する時の紅白歌合戦のようになってしまった。
というわけで、私は、この不良資産に普通なら入っているはずだろうと思われる フリューゲルスの最終モデルは、持っていない。
長くなったが話を戻そう。この年の水戸は激動の一年だった。 前年、前線の田畑に加えて、ストッパー起用された浦島「太郎」がブレイク。 ディフェンスには、渡辺卓に加えて木山を獲得。 いよいよと思った時に、この仕打ちを受け、J2から締め出された。J リーグからは、J2昇格の条件さえ示されない。
これでキレたのか、経済的に限界が来たのか、序盤は田畑を始めとして、離脱者が相次いだ。 チームは開幕ダッシュに失敗。正直もうだめか、と思った。
しかし、地道に活動しているチームをサッカーの神様は見捨てなかった。 神様は素晴らしいプレゼントをこのチームに与えたもうた。 それは、田畑の9番を受け継いだ途中加入の少年のようなMF、南光太だった。
そして、シーズン途中に2位以内に入れば昇格という基準が示され、水戸は奇跡の復活を遂げる。 そして後半戦の復調により2位の座を確保。1年でのJ2への昇格を果たしたのである。
この年は、横河電機対水戸の試合。 彼が灼熱の多摩陸上競技場で見せてくれたプレーは忘れじのものとなった。 あまりの暑さにほとんどの選手は消耗。そして試合は膠着した。 そんな中、南君は自陣から70メートルはあったろうか、高速ドリブルでフィールドを掛け抜け、 決勝ゴールを叩き込んだのだ。 そして、観客も含めて、灼熱地獄から、30分早く解放してくれたのである。
彼がゴールしなかったら、私は熱中症で死んでいたと思う。 彼は私の命の恩人である。 | 1999 |
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