鳥栖フューチャーズ96 |
| 一方、その本田の快進撃のあおりを食ったのが、この鳥栖フューチャーズだった。
鳥栖は、PJMという、企業向けの教育プログラムを販売する企業、 というかサッカー好きの変な親父、有田社長が、 浜松のクラブチームに財政支援を行ったのがチームの始まりだった。 そして、チームはほとんど常軌を逸する連勝街道を驀進。 あっという間に地域リーグを掛け抜け、JFLまで到達した。
このチームは壮大な夢を持っていた。 バブルの世の中にあって、有田社長は「何億もの金を使って絵画を買ったりするより、 マラドーナを連れてきたほうが、どれだけ喜んでもらえるか」という名言を発し、 アルゼンチン代表での同僚バチスタを監督に、弟のウーゴをトップ下に、とマラドーナゆかりの補強を行う。 しかも、マラドーナの為に背番号10を空けておく、という素敵なパフォーマンスも行っている。
しかし、そんな中、日本歴史上、最大の恥辱を法務省が起こしてしまった。 これが悪名高い「マラドーナ入国拒否事件」である。 日本の官僚が馬鹿ばかりだということの歴史的証明を、我々は忘れてはならない。
しかし、その後日本では、この愚挙に激怒した若年層を中心に、 抗議する意味で薬物が氾濫しているのはゆゆしき事態である。
閑話休題。 フューチャーズは、(たぶん)この事件を期にアルゼンチン路線の修正を余儀なくされ、 95年に、カメルーンのタタウに加えユーゴの選手を補強した。 しかし、バチスタの解雇に激怒したウーゴが結果的にライバルの福岡に移籍。 活躍すれど怪我ばかりしていたウーゴは、この年だけフルに大活躍。そして福岡を昇格させてしまう。
一方鳥栖はチームがほぼ崩壊。それでも、タタウのパワーと精神力。 途中加入のキーパー松永とFW青島の執念。 それだけで何とかしがみつくものの、終盤での3PK負けが響き、壮絶な敗北を喫した。
そして、96年、鳥栖は遂に補強に成功した。恐るべき攻撃的チームの編成に成功したのである。 FWにセレッソからバルデス。川崎から阿部を獲得。 この二人の相性が良かったのか、バルデスに加えて阿部が大ブレイクした。 中盤にはレッズからダイレクトパスの名手エドウィン上原。 右ウイングにはタタウ。センターバックにはミサイルフリーキックの石井。 そして最後尾に松永。役者は揃ったのだ。
ところが、前線が機能しすぎた。 これで出場機会を失ったエース青島が何とシーズン途中で本田技研に移籍。 そして青島はロペスとともに執念を爆発させ、ゴールにぶち込みつづけ、 一気に本田技研は首位戦線に浮上したのである。
この年のクライマックスは、秋口。 前節は豪雨の中ラウドルップ擁する神戸を一蹴し、快進撃を続ける本田との一戦。 場所はアウェイながらかつてのホーム、浜松だった。
そして、試合開始まもなく、この間までチームメイトだった青島が戦慄のゴールを叩き込み、 異様なテンションと殺気が沸き起こった。 そしてこのゴールに燃えた鳥栖は、かつて見たことがないほどの凄まじい攻撃を開始し、 安定度ではずば抜けていた本田技研をずたずたに引き裂いたのであった。 これこそが正に壮絶。 そして鳥栖は勝利し、昇格戦線に望みを繋いだのであった。
しかし、結局本田は最後まで勢いを失わず、優勝を果たした。 鳥栖は最後はキレてしまい、この年は東京にも抜かれて4位。 2位以内に入った準会員チームは神戸だけで、来期のJリーグは奇数リーグになる弊害が出た。 そして、財政は破綻寸前だった。
鳥栖は、Jリーグが特例で昇格を認めてくれることに一縷の望みを繋いだ。 都合の良い考え方ではあったが、Jリーグのチームはどんなに弱くても降格しないのだから、 それに比べればまだ理屈の通る要求であった。
しかし、Jリーグは、入れ替え戦実施の先送りは行っても、 奇数チームリーグの弊害を押しとおしてまでも、鳥栖の昇格を拒んだ。 そして、魅力的な攻撃チームがここに姿を消すことになった。
この試合はいずれ詳しく報告する必要があるだろう。
しかし、フューチャーズは、本当にディエゴにこの派手なユニフォームを着せるつもりだったのだろうか。
因みに、カミングアウトすると、私は東京の試合の時、一度だけ相手のユニフォームを着たことがあり、 それがこのユニフォームです。 フューチャーズがつぶれた後、サガン鳥栖が夢の島に来た時に、励まそうとして着ていました。 ずーっとゴール裏から見つからないようにしていたのですが、 自転車置き場で太鼓を持った人に見つかってしまいました。
あの頃は、面識はなくとも顔は見たことがある、という人達ばかりな規模だったので、気まずかったです。 事実、冷たい目で見つめられました(笑)。ばれていました。
決して裏切っていたわけではないので、許して下さい(笑)。 事実、あの日も岡元君の泥臭いゴールに反応しちゃって、 メインスタンドでも気まずい思いをしていたのです(笑)。 | 1996 |
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