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鳥栖フューチャーズ95アウェイ



 一方、その本田の快進撃のあおりを食ったのが、この鳥栖フューチャーズだった。

 鳥栖は、PJMという、企業向けの教育プログラムを販売する企業、
というかサッカー好きの変な親父、有田社長が、
浜松のクラブチームに財政支援を行ったのがチームの始まりだった。
 そして、チームはほとんど常軌を逸する連勝街道を驀進。
あっという間に地域リーグを掛け抜け、JFLまで到達した。

 このチームは壮大な夢を持っていた。
バブルの世の中にあって、有田社長は「何億もの金を使って絵画を買ったりするより、
マラドーナを連れてきたほうが、どれだけ喜んでもらえるか」という名言を発し、
アルゼンチン代表での同僚バチスタを監督に、弟のウーゴをトップ下に、とマラドーナゆかりの補強を行う。
しかも、マラドーナの為に背番号10を空けておく、という素敵なパフォーマンスも行っている。

 しかし、そんな中、日本歴史上、最大の恥辱を法務省が起こしてしまった。
これが悪名高い「マラドーナ入国拒否事件」である。
日本の官僚が馬鹿ばかりだということの歴史的証明を、我々は忘れてはならない。

 しかし、その後日本では、この愚挙に激怒した若年層を中心に、
抗議する意味で薬物が氾濫しているのはゆゆしき事態である。

 閑話休題。

フューチャーズは、(たぶん)この事件を期にアルゼンチン路線の修正を余儀なくされ、
95年に、カメルーンのタタウに加えユーゴの選手を補強した。
しかし、バチスタの解雇に激怒したウーゴが結果的にライバルの福岡に移籍。
活躍すれど怪我ばかりしていたウーゴは、この年だけフルに大活躍。そして福岡を昇格させてしまう。

 一方鳥栖はチームがほぼ崩壊。それでも、タタウのパワーと精神力。
途中加入のキーパー松永とFW青島の執念。
それだけで何とかしがみつくものの、終盤での3PK負けが響き、壮絶な敗北を喫したのであった。

このユニフォームは大きくラインがクロスしているような模様だが、
この年の悲壮な戦いが印象に残っていることもあって、
十字架とか磔とか、そんな模様に見えてしまう。

→つづく
1995