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ヴォルティス徳島 96-97?



 
そして、東京、本田とともに、アマチュアの雄としてリーグを面白くしたのが、このヴォルティス徳島である。

もともと、大塚製薬はJFL初期から中位をキープしている、いわば強豪企業チームという分類に入っていた。
エースストライカー、ワグネルを擁し、当時から準会員チームにとっては厄介な存在であったのだ。
特に柏レイソルの天敵として有名だったりした。

大塚製薬はスポーツ関係の飲料などでも有名である。
その絡みもあるのか、企業スポーツとしての強化にも力を入れており、
サッカー部の施設は、そんじょそこらの貧乏クラブとは比べるべくもなく充実している。

そして、そういった中から、関口などの日本人選手が育ち始め、
実に誇らしいチームへと変貌を遂げていったのである。

そんなチームが、四国から初のJクラブとしての期待を受けるのは当然のことで、
各地に起こった「わが町にもJリーグを」の声と同様に、徳島でも盛り上がりは起こったのだが、
残念ながらこの運動は行き詰ってしまう。

そう、Jリーグの提示したお馬鹿企画、アクションプランによって、プロ化申請の期限が切られたためである。
何度でも言おう。アクションプランとJ1参入決定戦は、Jリーグ最大の愚挙であり、恥部であるのだ。

結局、本田と同様、企業チームの難しさであるのだが、共同経営に参画するスポンサーが
結局見つからなかったことにより、J参戦を諦めざるを得なかったのだ。
「結局大塚製薬一社で経営するなら、Jとは言えない。企業チームと変わりがない」
という真っ当な意見が通ったのであった。

そして、新JFL参加後は、いつしかヴォルティスという名前もはずし、大塚FCとして活躍。
本田とともにアマチュアの両雄として、貧乏クラブチームを虐め続けたのであった。

しかし、地道に基盤を固めて遂に2004年、再びJリーグを目指すことを宣言。
2005年のJ2参入に名乗りを上げたのであった。
そして、クラブ名は一般公募されたのだが、素晴らしいことに「ヴォルティス」に決定したのである。

こういう動きが歴史となって、クラブと地域とを結び付けていくんだよな。
何とかターレとかいう某都市型大企業型チームに聞かせてやりたいものである。
1996