川崎フロンターレ98アウェイ |
| そんなこんなで等々力には相変わらず私の居場所はなかったが、 98年に、再び私の「東京に専念しよう」という決心をぐらつかせる出来事が起こった。 それは、知将ベットの監督就任である。
しかし、この年の川崎の動きは極めておかしかった。 何しろ監督就任が決定したのは選手が全員決まった後。 しかも、野口、長谷部、と言った、昨シーズン途中に獲得して機能していた主力は出ていってしまったのである。 どう考えても、これでは新監督の目指すサッカーができるとは思えなかった。
序盤は最低だった。 新加入のヴァルディネイはゴールを量産して野口の穴を埋めたが、ムタイルは怪我ばかり。 そして、源平・浦田・ベッチーニョといった前線の選手が、全くこのヴァルディネイと噛み合わなかった。 ブラジル留学する予定だった伊東を急遽残留させたり、明らかにチーム編成に悩んでいるようだった。 そして、ちぐはぐしていたチームは、ネネー率いるジャトコにまで完敗。 そして構造改革は実行された。
手始めは、富士通時代からゲームメーカー、もしくはボランチとして期待されていながら、 昨年は名前負けして完全に干されていた久野の左サイドバック起用だった。 そして、スリーバックに移行。 長橋、久野はウイングに上がり、攻撃力が活かされる事になった。
更に、昨年攻撃的になりすぎていた大塚・中西のボランチコンビは鬼木の加入により解体。 鬼木・大塚のボランチはひたすらスペースを潰しつづけて、両ウイングの攻撃参加をサポートする。
そして、3バックは少しづつフラット3(若干変則的ではあったと思うが)へと移行。 それに伴ない、ストッパータイプの小松崎の代わりに、中西が右に入り、 富士通時代からの生き残り、川元が左に起用された。
中西は次第にこのポジションで本来の攻撃能力を発揮し、 時にオーバーラップした長橋の更に外をオーバーラップした。 当時は3バックのストッパーがオーバーラップするなど前代未聞だったから衝撃的だった。
試合中の戦術変更には、頭が良く、バランス感覚に優れた土居ちゃんが重要なポイントを担った。 高田などの従来からいた選手も、要所で登場した。 選手を育てると言う、チームカラーにそぐわない改革は進行し、土台は整った。
また、懸案の前線はマークが厳しくなりつつあるヴァルディネイの相棒を確定させる必要があった。 そして、どう考えても合わないドリブラーベッチーニョと、怪我のムタイルを放出。 そして、ゲームメーカーモレノと、ユース監督時代の教え子、19才のツゥットを緊急獲得した。
この中でも、ツゥットがみるみるフィットした。 圧倒的なスピードと意外性のあるプレイで、ヴァルディネイの相棒の座を確保した。
それだけではない、次はやはり富士通時代からの生き残りの伊藤彰が、 ツゥットとの相性の良さを発揮し、トップ下というよりはツウット回りのレギュラーに定着した。
ツゥット・伊藤彰のコンビは、おもに左サイドで絶妙のコンピプレイを見せ始め、 エースのヴァルディネイを、単なる囮に追いやってしまった。
前線3人からバランス良くゴールが生まれ始めていた。
少しづつ、半年がかりで、チームは変貌した。 そこには、極めてインテリジェントな、しかも面白い、想像力に溢れた魅力的なチームが存在していた。 シーズン終盤に、川元が久野の外を豪快にオーバーラップした時に鳥肌が立った。 入れ替え戦を前に、超攻撃的なチームが完成しようとしていた。
しかしながら、ゴール裏にはたぶん平塚流れの人が多かったのだろう 「ベッチーニョ」とかいう横断幕が惨めったらしく掲げられていて、 「ベットは選手をえこひいきする」などという耳を疑う意見が交わされていた。
チーム一の人気があった源平や、向島建が結果として干されてしまったのもその動きを助長したのかもしれない。 事実、源平の大ファンである私も彼が使われないという意味では不満はあった。 が、今のチームが当然の競争の結果、極めて妥当な結論として存在していること位は理解できた。
チームはプロらしくなっていたが、選手とサポータはアマチュア気分が抜けていないようだった。 事実、練習場では、聞こえよがしにチーム批判をしている選手もいた。 あれを見たサポータさん達の間には、「誰が干されている」とかいう色々な噂が広がったのだろうな。 信じがたいことだが、こういう状況でJリーグを目指していたのがこのチームだった。
確かフリューゲルスのレシャックとか言う監督が、 「日本のサポーターは選手しかサポートしない。だから、私が若手を起用すると抵抗が起こる。 チームをサポートして欲しい」と言っていたが、 だれもこのチームの関係者は聞いていなかったようだ。
そんな次元の低い問題を内包したまま、チームは入れ替え戦へと突入する。 博多の森でのアウェイ一発勝負を控えたリーグ最終戦。 「参入決定戦2回戦割引購入券」が配布された。フロントの能天気さに呆れる思いだった。
博多の森でのアビスパ福岡戦は凄まじかった。 気温が寒かったのもあったのだろうが、見ていて全然体温が上がらなかった。 この試合はいつかレポートをまとめたい。 温かい部屋でテレビを見ながらスポーツライターが書いたノンフィクションよりは、絶対に良いレポートを書いてやる。
そして、この試合でチームは壮絶な突然死を迎える。 この時点で、やはり全てが終わったのかもしれない。
そして翌年の春。36試合という長丁場になったJ2。 開幕1ヶ月前始動という考えられないスロースタートをした川崎は、 予想されたとおり、スタートダッシュに失敗する。 しかし、東京戦での引き分け、甲府戦での勝利を経て、チームは復調。 全ての懸案は解消されたように思えた。
ところが、そんな中、ベットが突然解任された。 そして、京都を元日本代表のゴミ捨て場のようなチームにしてしまった松本育夫が監督として招聘された。 信じられないタイミングだった。 フロントが描いていた筋書きとしか思えない、いかにも大企業的な人事異動だったように思えた。
やはり等々力には私の居所はなかったのだ。 このチームなら一生付き合って行けるかもしれない、と思ったのはやはりまやかしだった。 たまたまいい選手や監督と出会うことはあるかもしれないが、 やはり、チーム特にフロントに惚れ込むような位ではないと「サポーター」と名乗るべきではないのだと勉強させられた。
でも、私も博多の森で菅野と号泣したりしながらも、うすうす感じてはいたようで、 99年はちゃんとFC東京の年間チケットを購入していたのだ。 そういう意味では、いいタイミングで縁切りさせてもらったのだろうと思う。 フロンターレのフロントに感謝しなければいけないな。
因みに、この年のユニフォームもアウェイしか持っていない。 そして、ツゥットだけにサインをもらっている(笑)。
東京ファンとして、素晴らしいセンスだったと思う。 | 1998 |
|