浦和レッズ 1995 |
| 急速にJFLシフトが進行した私だが、当時は何しろ、もっとサッカーを見たかった。知りたかった。 そのため、とにかく競技場に足を運びつづけた。
そして、95年のファースト・ステージは、 26節完全観戦制覇(一度三ツ沢から国立に梯子したから27試合だ)を達成した。 当時は週2試合のペースだったので、これも今から考えると脅威的だ。
そんな中、急速にリーグが盛り上がりを見せた。 それは、あの、リーグ最低のサッカーでレベルを下げていた名古屋と浦和の脅威の成長であった。 名古屋は現在プレミアリーグのアーセナルで指揮を取るヴェンゲルが監督になって、 別のチームのように生まれ変わった。 特に、ストイコビッチの四次元のプレイはあまりにも別格で、ある種他人事のようであった。
一方、燃えたのは浦和レッズのゲームだった。 監督にドイツのオジェックが就任。 こちらは名古屋のように洗練されはしなかったが、逆に身近な存在のように思えた。 キーパーは魚屋の親父のようなでかい声を持つ土田。 そして最終ラインはクラッシャー田口に赤い巨壁ブッフバルト、 そして後には褐色の重戦車ボリまで控えることになる。 そして、中盤には歳ではあったが頼りになるバインが控える。 前線には大柴に福田。そして、岡野が投入され、疾風の如く彼が走りまわると、もう無茶苦茶だった。 観客は黙っていられなかった。
いよいよ一見さんが減りつつある中、浦和には熱狂的なファンが残った。 国立競技場でナイターなどやられると、それは亜空間の憧憬だった。
誰もが日常性から逸脱したスタジアムの中で、地鳴りがするような声援が波動になって、 確かに選手の背中を押し、時には、ゴール前の交錯からこぼれたボールを押しこんだりしたのだ。 そこにはエクスタシーが存在した。
プロスポーツは観客があってこそ成立する、ということを再認識させられた。 関係ないが、等々力でヴェルディ戦を見ていた時、隣の客に「声を出すな」と言われたことがあった。 あのチームは、チームに魅力がないのは言うに及ばないが、 それはまた、観客に魅力がない、ということの裏返しであることを忘れてはならない。 | 1995 |
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